2012年06月30日

一万人を失明から救った男 一万人を失明から救った男

眼科医 

題名から見て波瀾万丈ぶりが伺える服部先生に独占インタビュー。

Q1.まず、なぜ医師を志したのかお聞かせ頂けますか?

子供の頃は電車好きで、実は運転手になりたかったのです。しかし、17歳の時に転機が訪れました。父親を胃がんで亡くしたのですね。それがきっかけで、訳も分からず家を飛び出し、北海道まで一ヶ月の家出をしました。その道中色んなことを考えました。ところが偶然、そんな僕をかわいそうに思ったのか、旅先で何とも言えぬ人の温かさにたくさん触れたのです。その時に、このまま堕落していくのではなく、自分も人のためになるようなこと、世の中に貢献出来る事をしたい、と強く思ったのがきっかけです。そこで医学の道を志しました。そういう人にたまたま出会ったのは運がいいかもしれませんね。 

しかし、それからの道はそう簡単なものではありませんでした。早速、進路相談の先生に医学部へ行きたいと相談すると、死ぬ気で頑張れば、二浪すれば入れると言われ、その通りにがむしゃらに勉強しました。朝7時前には予備校の門へ一人で並び、誰よりも早く勉強を開始して、一日14時間は勉強していました。父親の遺言が「人に負けるな!努力をしろ!」だったので。2年は覚悟していましたが、4浪の末やっと医学部に通りました。予備校ではいつしか主的な存在になっていましたが(笑)

 

Q2.大学生活はどのように過ごしたのですか?

あだ名は、はっちゃん。浪人の時のはずみがいっきに爆発したかのように、麻雀やウェインドサーフィンにも熱中しました(笑)今だから言える笑い話ですが、先生と単位を賭けて囲碁で勝負したこともあります。結果、勝ちましたが、ただで単位を貰うわけにはいかず、勉強をして試験に望むも、カニングをしたとなぜか教授会で大問題になりました。実際は逆に友達がカンニングをしたのですが、認めてもらえずに悔しい想いをしました。四日間、教授の家に座り込み説得を試み、最後は認めてもらえました。四日間ですよ、四日間。また、服部塾という個人塾なんかにも精を出しました。4年間浪人して得た知識を活かす一番良いアルバイトでしたからね。高校3年生もしくは、浪人生が教える相手ですから、予習もしっかりしておかなければなりません。しかし、学校の授業中によく数学の問題を解いていると『はっちゃんもう1回受験するんか(笑)』と友達によく言われたものです。自分の勉強よりも、受験生を教えることに一生懸命でした。こう話すと全く勉強していないみたいですが、6回生の卒業試験が終わってからやっと医師免許試験の勉強をやりました。それでも風が吹くと言ったら、もういてもたってもいられないので、医師免許試験の3日前でもウインドサーフィンに行きました。友達が下宿にきていて、鍋の支度をしているのですね。勉強しないといけないのに、、、『今からやっても一緒だよ』と鍋とビールも準備していました。でも、今思い起こして考えると何事にも熱中していたと思います。遊びも勉強にもね。

 

Q3.なぜ眼科医を目指されたのですか?

本当に不思議な縁なのです。最初は父親の死因が胃がんだったので、消化器科を目指したのですが、たまたま行った説明会で、眼科の先生に言われた一言が妙に心に刺さり、この人のもとで学びたいと思ったからです。実はそれも友人から「焼き肉が食べれるから行こう」と誘われた軽いはずみで参加した説明会で(笑)。そこで出会った先生が本当に素敵な方でした。今でも覚えていますが強烈なインパクトでした。「人と変わっていることは良いことだ。お前みたいなのが眼科に来て色んな風を持ち込んで良い風に変えてくれたらいい。これからはBe internationalだ!」と。当時としては、斬新な考えでしたね。しかし、母親は当初眼科の道に進むことに反対しました。それを知った先生が「では私がお母さんを説得しよう」とまで言ってくれたのですよ。結果的には自分で説得したのですが、今考えても心の広い先見の眼を持った本当に素晴らしい先生です。 また、眼科を選んだので、どうせ勉強するなら、『おまえは外科志望だから目の手術のなかで一番難しい網膜を勉強しろ』と勧められて、その道を選びました。その網膜の研修を受ける為に、大阪の病院に研修に出されたのですが、その院長の真野先生も素晴らしい先生でした。今でも実践していることがあるのですが、「目や病気だけ見とったらあかん、人の心を見ろ」と。かっこいいと思いませんか?先生とは本当に良い出会いでした。

 

Q4.医者になって働きだしてからの苦労は何かありますか?

苦労の連続でしたよ。最初は、なかなか執刀をさせてもらえずに悔しい想いをたくさんしていました。目の前で手術を見ながら、「大阪、九州で始業を積んできましたので、網膜の手術に置いては日本の数本の指の中にはいるほどの実力がありました。これじゃ、自分がしたほうがいいいのに」と良く思ったものです(笑)たまに院長先生が出張などでいなくなるときだけしか、執刀するチャンスはありませんでしたが、その後、徐々に信頼を得ることができ、院長から声がかかり、執刀するチャンスが増えました。入った当時は、九州の環境と全く違っていて、丁稚奉公です。6年目の医師でしたが、研修医とおなじ扱いでしたから、四日目に辞表を書きましたよ。その後も20回辞表を書きましたが、一度も出したことはありません。1年間は助手の助手で丁稚奉公からの奉公でしたが、私は患者さんを家族と思って接していました。そうすると、他の病院からも色々と声がかかり、根気よく、一生懸命に診療に力を入れました。手術できなくてもいいや。やれることを最大限にやっていく。それしか道はありません。「ドクター服部に診てもらいたい人を何人つくるか」これが私のモチベーションでした。当然、収入もうなぎ上りでした(笑)月収200万ほど30歳そこそこで貰ってましたから。一般的にみると恵まれていたと思います。

 

Q5.なぜ順風満帆の生活を捨てて、無償でボランティアをベトナムで行うことになったのですか?

学会での出来事で偶然、隣に居たベトナム人に声を掛けられたのがきっかけです。「ベトナムではたくさんの人が失明しています。ただ、治療を受けられるお金を払えないのと、その技術がないからです。あなたの技術で彼らを助けて欲しい。」そう言われ、やってみることにしました。その話を受けて3ヶ月後にはもう日本での仕事を辞め、ベトナムへ行ってましたね。たぶん、それは高校生時代に感じた、人のために何かしたいという自分の指針と合致したからだと思います。37歳の時でした。周りの人からは『あほとちゃうか』と何度も言われ、揶揄さえする人もいました。

 

Q6なぜそんなに大変なことを続けられるのですか?

目の前に助けを求める方がたくさんいるからです。私は遠慮せずにひとは助けたい。そう思っています。自分に出来る事ですから。日本の病院で使えなくなった機材などは頭を下げてベトナムへ持っていくためにもらったりします。これも自分に出来る事ですから。ただ、最初は苦労もありました。フリーの眼科医になったわけですから、大学病院などの肩書のない名刺だと仕事も頼まれない。それでも昔のつてをたどって、日本でアルバイト診療をしては、ベトナムへ飛び、施術をする。そんな生活を続けてきました。そうすると徐々に援助してくださる方も増え、いまではドネーションなどにも助けられて何とかやっています。時には本当に嬉しいこともあるのですよ。失明から光を取り戻した方が、たまに報告をしに遠路はるばる田舎からやって来る時は素直に嬉しいですしね。これが私の活動のモチベーションを継続させているのかもしれません。

 

Q7 最後に若者へメッセージをお願いします。

諦めないこと。突き抜けるまでバカと周りが言っても、おかしいなやつだと言っても自分を信じて突き進むことですかね。石の上にも三年と言いますが、本当にその通りだと思います。でっちぼうこうですよね、昔で言う。すぐにやりたいことをやれるなんて思う方が間違いだと思います。辛抱する事でチャンスが回ってきて、徐々に信頼関係を育みながら、徐々に花開く。と言った感じでしょうか。すぐに物事を諦めてほしくないですね。失敗は成功のもとです。私の人生は挫折の連続ですが、その挫折がいつかその人を強くし、いろんな壁を乗り越えられる人になっていくのだと思います。

 

服部 匡志(はっとり ただし-48-)

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お名前 : 服部 匡志(はっとり ただし-48-)